西安は、ひとことで言うと、
どこか退廃的な街だったと思う。
そこがその昔、栄華を極めた場所だったということが、さらにいっそう、消えない雲のようなう鬱陶しさを押し付けてこられたような気分になる。
中国にひょんなことで暮らすことになったこと、
そして中国内のはじめての飛行機移動が西安だったこと、
そこに何の因果関係もないのだけれど、
そのなんともいえない気怠さを、上海にいる今も思い出してしまう。
▲ 路地をひとつ入ると、少し寂びれた町並み。
▲ 「唐人街(Chinatown)」と言われても、ここはまさに中国なんだけど。
▲説明するまでもなく、兵馬俑たち
▲ ドライバーに連れて行ってもらった地元レストラン。激うま!
▲ 楊貴妃が入ったとされる温泉浴槽。
楽しい旅行記。
楽しい情報。そういうものはもはや意味のないものに思われる、
本日の蒸し暑い上海。
ブログにせよ、SNSにせよ、
そういういつでも誰かがそこを覗いているようなツールは、
はやくなくなってしまえばいいと思ったりするのは、
この梅雨のようなムシムシした上海にいるせいかなと思う。
いつかそれに代わる新しいツールが出て来て、人はそれを使うだけ。
本当にそうだと思う。
ちょうど、西安がこんなにも、どこか退廃的だったように。
時代はどんどんと変わっているようで何も変わっていないし、
真剣に変わることを望んでいる人たちは少なくともわたしの周りにはいない。
時代は変わっていかなくてもいい。変わらない。
人は変わるけれど、時代は変わっていない。
人が変わるから、時代が変わっていくように思うだけ。
時代が変わったとか、時代が悪いとか、いい時代に生まれたとか、
時代なんていうまるであてにならないもののことを語っているときこそ、
人は止まっているような気もする。
でも、人は毎日出勤し、通学し、何か目的をもって移動し、また元の場所に戻って来る。
ずっと動いている。食べている。飲んで動いて、眠っている。
でも、ふと、行き止まった感じになる。
私たちのマンションの27Fの窓から見える上海の夜景は、
どこまでも都会の夜景そのもので、
でも、もうスッパリと行き止ったような感じになるときがある。
久々に読んだ日本の小説は、どうしようもないくらい面白くなくて、
こんなんじゃ、わたしが書いたほうが面白いと思うくらい、
冒頭の3行目で全ての結末が分かってしまう。
海外にいると、
日本にいるときより格段に「インプット」が多くなっているけど、
でもそれを自分なりの咀嚼で「アウトプット」していないのかもしれないな、
と上海生活3ヶ月目の覚え書き。
上海は想像以上の奥ゆかしさをもって、
どっと押し寄せてきている気がする。
ふと行き止った感じになっても、
次の瞬間には何とかなる気がするのは、この国のパワーだと思う。
それは日本では感じたことのないパワーだと思う。
でも、そんなとき、ちょうどこんな季節に出会ったのに、
もうこの世界からいなくなってしまった人のことを考えて、ほんとにふと立ち止まってしまう。
でも、窓の外のだだっ広いマッチ箱をたてたような夜景を見て、
少し元気になる。
ふと行き止っているものに癒されることもあるのだと思う。
そんな上海生活、もうすぐ三ヶ月。
楽しいばかりの日々。
今日、大学の中間試験も終わった。
勉強の仕方はまだ忘れていないらしく。まだ脳は動いているようで。
でももうあと二ヶ月で、北京に異動。
頭を使う作業、仕事、文筆、とにかく頭を使って生きていきたい。
バカだからこそ言えるこのセリフ!