意外と家の近所にあるロシア人街は、なんだかとても歩きたくなる閉鎖的空間。
別に格段閉鎖的なわけではないが、
北京ではない空間と、漢字ではない文字と、
そしてアジアじゃない人の顔がたくさんある。
こんなに北京の中心にあるのに、だ。
最近、ワインをマンション村のスーパーで口までマフラーを巻き付けて極寒の中、買いに行って、家の中で飲むことがとても幸せ。
旦那さんの出張が増えていて、
北京の夜をひとりで過ごすこともあるのだけど、
ワインを飲みながら、中国人や日本人の心を分かりきった(分かりきられた)友人たちと文字で交信し合って、あーだこーだ、ただそれがとても楽しい。
わたしは先日30歳になった。
女で、既婚者だ。
よって、あと残るは子供を育てることなのだと思う。
いや誤解されたくないので言うが、
女は一生ひとりでも生きて生けるし、むしろそれは究極にかっこいい。
結婚しただ、子供を産んだだ、
しかも時系列に人に評価されるほど、
女も人間もバカではない。
ただ子供ができる自分というのを想像すると、どんな小説よりもおもしろい不思議な
気がするので、欲しいと思っている。
が、すぐに出来るわけでもかったのだけど。
子供を宿すことがまず先で、
そのあとは生むことが待っていて、
そのあと、育てる ということになるのだろう。
が、自分でも極端に否定したいことは、
なぜプロフィール写真が子供の写真なのだ?と思ってしまう。
おとなげない意見だけど。
わたしは子供を生んだとしても、きっと自分は自分だよ。
そうでいたい。
子供しかない、そしてそれをさも所有物かのように人に見せたがる、
そんな母親にはなりたくない。
所有物じゃないからね。
所有物はあくまで一生、自分の体とこころだけだからね。
子供がいないのに言うのもとてもおこがましいし、ごめんなさいなのだけど。
そうならないようになるまで、
わたしたちのところに子はやってこない、って勝手に自信を持っている。
子供は子供で、わたしはわたしで、だんなさんはだんなさん。
わたしがとても嬉しいのは、その中でうまれる関係性。
いずれにせよ、
よく分かっている。
いやというほどよく分かっている。
はやく子供でもうみなさいよ、なんて人の目があるということ。
もう結婚3年だし。
が、自分の体というのは気持ち以上に正直なもので、
というか、もし将来的に我が子になるである人物がいるとしたら、
その子がある意味とても聡明な子だとすでに思っているのだけど、
ここ北京のこの日々が、
自分にとってあまりに色々な刺激と、
もしかして少しだけ持っているかもしれない書いたり撮ったりという分野があまりに騒いでしまって、色々と気持ち的に大変なのも事実。
自分の人生だけど、
女である以上誰かの人生であるかもしれないけれど、
でも、わたしはここ北京の極寒の街を歩きながら、ひたすら思う。
自分の心に素直に、
自分の直感のままに、歩くしかないと。
なにがあるわけではない。
ただ、持つことがそんなに重要か。
一人前じゃないという事実をつきつけられても、
自分にとっての今という時間は誰が監修してるわけでもないだろう。
結局自分が納得すること、時間、とき、
そんなことでしか自分を縛れないのだろう。
女は30になると、
そして子がいないと、
とても自由な気分になるものである。
でも、自由というのは大学生のそれとは違う。
自分を生んでくれた大切な母が、今のわたしの年齢の頃なにを考えていたのか、そう考えることがある。この年齢の頃、すでにわたしはもう話を十分にはじめ、もしかしたら自我も芽生えている頃である。
母は今のわたしの年齢の頃、
わたしをもう知っていたのである。
北京の街を嫌う人をよく見かける。
親しい北京出身の中国人も、自分の生まれ育った北京が嫌いだと言う。
でも、わたしは、
上海よりこの街をとても好んでいる。
そりゃ娯楽もなければ、快適な気候もない。
便利な交通もない。
が、おそらく皮膚に合うのだろう。
北の街独特の少し閉鎖的な空間がより一層、自分の日々を濃厚にし、そして自分の考えを濃厚にし、感情を希薄にし、そして厚いコートを着て、顔の半分をマフラーで覆って、そして日々誰かと会い、それが日本人だったり中国人だったりするけれど、そんなことは関係なくて、ただ今の自分と時間をともにしてくれる人をとてもいとおしいと思い、そんなことで日々暮らしている。
ここのブログを、誰が読んでるのか、いまいち把握もしていないしする気もないけれど、
たとえば私のことを直接知らない人、直接知っている人、どんな今のわたしを想像するのだろう。
あなたを拒絶しているわけでも、否定しているわけでもない。
好きでもないし、嫌いでもないし、よく分からない。
なぜなら今面とむかって話しているわけではないから。
人と関わること、
それは肩に手をぽんと置いてくれるぬくもりのことだと最近そう思う。
バスに乗っていて、老人に席をゆずるときに、
肩にポンと手を置くことにしている。
そしたら、その老人もわたしの肩にポンと手を置いてくれる。
そういうただの非言語のコミュニケーションが、いかに今のわたしの毎朝を支えているのだろう、と思う。
ここで毎日暮らしていくなかで、何とも削ぎ落していかねばならない心の部分もあるし、逆に貼り重ねなければならない心の部分もあり、いずれにせよある一定以上のテンションを作っていないと、寒さにもパワーにも負けてしまうのだ。
そして、今、
いろいろな部分がドバッと開いては入っていき、
閉じては開いているこの極寒の中、
わたしが今なにをすべきなのかを考えていると、
ますます分からなくなって、
ただ文章を書き、もしかしたら子供がいたらいいかもなと思い、
ただ中国人と交わり、ただ中国人のいい加減さに腹をたて、
でも中国人に慰めてもらいながら、
ただ今自分だけでもいいなと思ったりしながら、
気付けばお札持ってマンションの中のスーパーでワイン(必ず、白)を買い、
マンションのフロントにいる中国人朋友にクッキーをあげ、
そんな日々なのだ。
エンジョイしているね、
楽しそうだね、刺激的だね。
なんてよく言われるけれど、
そんな言葉では片付けられない、片付けたくない、
いろいろなものを目の当たりにして、
でもこういう気分でいるうちは自分は大丈夫だと思うのだ。
流されない、流されたくない、流される気もしない。
あなたは笑うかもしれないが、
30になっても、40になっても、きっと自分は自分らしく生きていくのだと、
30の誕生日に妙に実感した。
一般的なこと、根拠のないこと、ただ世間的なこと、
そんなことを正しいと思って何となく流されることは、半分正しいけれど、半分は正しくない。
そして正しいと思ってとった行動でも、半分の人は自分を否定し半分の人は肯定をする。
正しくないと思ってとった行動でも、半分の人は自分を否定し半分の人は肯定をする。
よって、自分が正しいと思ったことを、
ただやることしか、道はないよね。
でもそんなとき、自分の刺激剤となる人間関係や本と出会うと、とたん流されそうになる。
でも、きっとそんなところに道はないよね。
今夜も旦那さん出張で、
わたしはワインで酔っぱらっているのだけれど、
酔っぱらった勢いで、どばっと何かを書きたくなった。
でも、書くべき場所はこういう場所ではない。
わかっている。のよ。
ここ誰が読んでるのさ。
でも、誰が読んでいても、まあいいの。
30になったことだし、真摯に自分の表現の仕方を考えていくかな。
世界との距離感とも言えるのだろうけど。
でも読んだら何かしら反応くれると嬉しいです。
メールでもLINEでも、Facebookでも。手紙でも。
異国にいると、こういう場で書きっぱって妙に後味わるい!
なにもかも、北京の寒さのせい!
アルコール摂取量が増えるのは北国の常だと体感してますよ。
そして今日の駄文のお供は、北京のロシア人街。
異国情緒でしょ。