何とも蒸し暑い日々の北京ですが、日本はもっと暑く蒸しているようで。
日本のみなさまはいかがお過ごしでしょうか。
お盆のお休みの方が多いのだと思いますが、こちらはお盆の雰囲気もまるでなく、長い夏休みもなく、淡々と濃々と過ごしております。
冬は激しく乾燥する北京。
そして夏もそんなにも蒸さなかった北京のイメージなのですが、今年はまるで日本の梅雨のような日々が続いていて、ついに今日たまりかねて前髪に少しストパをあててきてみました。
だいぶ久々に、ストパだよ。
毎日、バスで50分かけて勉強しに行っているので、北京の空調のついていないバスのあの蒸し風呂状態の中、髪の毛が鬱陶しいったら。
だから少しは楽になるでしょう。
もう日本語も美しく話さなくなったし、
文章もたいして書かなくなったし、
ついでにすごく俗っぽく中国語を学んだり、中国人と触れ合ったりしているので、自分の中のちょっとした文章へのプライドも風前の灯火。
でも、ある人はいまだ私の書くものを読んで好きと言ってくれるので、私はやっぱり書く時は書きたいなとおもい、なんとなく今また、書くモード。
最近、本当にいろいろと考えてしまう。
昔ほど感情がぐらぐらと動くわけでもないのだけれど、完全に固まりきった感情の石というものも時に表面の色を変えたりするようで。
みんなは何を考えて生きているんだろう。とか最近妙に考えてしまう。
その人の真実は何なのだろうとか、その人は嘘をつくのだろうか、とか。
誰だって何かしらの目的や真実を持って生きているんだろうけれど、それは誰にとっての目的で真実なんだろうね。とどうどう巡る。
都合のいいときに「社会」なんてものを持ち出して、言い訳する。
都合のいいときに「友情」なんてものを持ち出して、言い訳する。
それは全部自分のはなし。
どれだけ言い訳をして暮らしているだろう。
そんなものが必要なかった時間が私には長過ぎて、今、自分のいろいろなことにたいする言い訳に長けてきて、だってこれが大人ってもんでしょう、なんてさらに言い訳を追加して、ときに何が何だか、朝日が寝室のカーテンに射し込んできて目が覚めて、「ここはどこ?わたしはだあれ?」なんて最近何度思ったことか。
本を読んで本の活字に頼り、
音楽を聴いて音楽の旋律に頼り、
でも結局いますんなり心に入って来るのはノンフィクションの世界。
愛情、友情、同情、感情、激情。
いろんなものが「文字」で表現できるとずっと思って30年生きてきたから、いつでも本をたくさん読んだし、いつでも本に頼ったかもしれないし、そのせいで(口べたな)自分もいろいろなものを文字で表現してきた気がする。
でも最近、「文字」で表現できないことが多すぎて、それは今ここで中国語を使ってそれをしなきゃいけないということもあるのかもしれないけれど、そうでもなくて、なんでもかんでも、「文字」や「ことば」で表現なんかできないって、そう思ったりすると、とたんに何も読みたくない書きたくない病になったりしながら、
でもすんなり入ってくるのは、北京の街の汚いゴミとか、乗ってるバスの蒸し暑さと自分の汗のにおいとか、
30歳にもなって手探りばっかりしている毎日で、でも自分には正直にありたいと思いながら暮らしていて、友人に頼りながら、夫に甘えながら、結局気付けば自分に頼ったり自分に甘えたり、そんなことを忘れかけてたななんて思いながら。
中国に来てから、いろんなことが起こっている気がする。
表面的なものも、目に見えないものも。
いつになく楽しかったり、
いつになく迷路に入っていたり、
やはり異世界には変わりないのだと思う。
たくさんビールを飲みながら、たくさん人と喋りながら、でも誰かに何かを残しただろうか。
誰かに何かを残す為になにをしてあげればいいのだろうか。
あと何が足りないのだろうか。
そしてどこまで自分を変えたり、誤摩化したり、貫いたりすればいいのだろうか。
高校で誰よりも勉強をしていた時代、
大学で演劇をしていた時代、
日本で働いていた時代、
そして今。
今が一番自分に素直に生きている気がするのだけれど、なんとなく世界にそぐっていかない気が勝手にしているのは、それはなんでだろうか。
きっと、すべては自分でもっと奮い立たせながら、もっと二本足で地面を踏みしめていくことが足りないんだろうな。
いつだってナルシスト的感覚が人をそこに存在させるもの。
ほら自分ってこんなにかっこいい、ってそう思うために生きているんでしょう。
誰だってそうでしょう。
でも、ふと思ったとき。
なんか、美しいパッケージに並べられたカラフルな丸いマカロンみたいに、人がそんなマカロンみたいに見えて、たまにとても可笑しいんだよね。
将棋の駒って言ったら否定的だけど、
マカロンって言うと、なんかかわいいし、いとおしいし、可笑しいよね。
我像是一颗棋子
举手无回
我没有决定被输赢哟勇气
(わたしはまるでチェスの駒のよう。一歩進めたら、もう戻れない。私には勝ち負けを決める勇気がない)
別に何かに悲観してるわけではないよ。
ただギリシア悲劇を観劇することが市民のカタルシスの場であったように、そうやって自分も自分でそういう場を作っていかなきゃならないなと思うだけ。